ラパス (La Paz)
かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカに委任された.
ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサに、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した. 1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマとの中継地点として、ラパス市が建設された. 建設当時の名称はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(La Ciudad de Nuestra Señora de La Paz、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (Laja) という場所が中心であった. しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された. 1549年、ホアン・グティエレス・パニアグアは、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた. 現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された. 1549年に建設が開始されたサンフランシスコ教会は1610年に積雪によって倒壊したが、1744年より再建が始められ、1784年にアンデス・バロック様式の教会堂として落成した. 植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した.
1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した. 30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した. この時、この場所でエケコの伝説が生まれた.
1809年にスペイン支配からの独立を求め、が始まった(ボリビア独立戦争の中心地のひとつ). 1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた. これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した. ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョはその晩スペイン広場で絞首刑となったが、ムリーリョの名前は広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として記憶された. 1825年12月9日のイスパノアメリカ独立戦争におけるでのスペイン軍に対する、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍率いる大コロンビア共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「アヤクーチョの平和」の意味)に変更された. スクレはこの戦いの後、ベネズエラ人でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった. 1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った. これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していたポトシ銀山とスクレ市を背景とする保守党勢力から、オルロ近郊の錫とラパスを基盤とする自由党勢力に、政治、経済がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、1929年の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した.
1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった.
地図 - ラパス (La Paz)
国 - ボリビア
ボリビアの国旗 |
太平洋戦争 (1879年-1884年)で敗れてチリに太平洋海岸部の領土を奪われて以降は内陸国となっており 、南西はチリ、北西はペルー、北東はブラジル、南東はパラグアイ、南はアルゼンチンと国境を接する.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
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BOB | ボリビアーノ (Boliviano) | Bs | 2 |